父ちゃん、
実は父ちゃんに
小学六年の時、親の職業調べがあって倉山先生が「伊東んとこは?」と尋ねたとたん、「ウオショウ」なんて答えちゃった。魚屋って言うよりカッコいいと思って。ごめんね。
放課後、職員室でアブラを絞られました。「『ウオショウ』とは何だ!どうして魚の行商ですって言えないんだ、このバカモン!!。七人もの子の為に必死で働く父親を
学校帰りに父ちゃんがリヤカーを停め愛想笑いをして商っている姿が妙に情けなくて。その非を悟ったのは自分が人の子の親になり世の酸味を知る年齢に達してからです。
俺が魚屋を継ぐのを拒み、進学を志している旨を告げた日、父ちゃん怒ったっけね。
「学問なんかして
十日後、俺の肩に手を置いていいました。
「なーにお
後年、俺が教職に就くと「
これ、父ちゃん流?の自慢だったんだね。何せ教師を〈先生サマ〉なんて敬称に尊称までくっつけて言う父ちゃんだったものね。
父ちゃん、俺も遠からず父ちゃんの
それまで元気で生きていきます。
ある日の夕暮れ、仕事を終えて帰宅すると一組の親子が私を待っていました。話を聞くと我が家の塀沿いに植えてあるプチトマトの実をお子さんが採ってしまった…とのことで、わざわざ帰宅を待って謝ってくださったのでした。夕焼けの中、手をつないで帰っていく母子の姿を見送りながら…、私は"あの日"のことを思い出していました。
母さん、あなたは"あの日"のことを覚えているでしょうか?私は、今でも鮮明に覚えています。
小学二年生の夏、学校からの帰り道。数人の友だちと一緒に私は近所の家のびわの実を採って食べてしまいました。"盗む"なんて気持ちはなく、ただの"遊び"のつもりだったのですが…。あなたはそのことを知ると、私を引きずるようにその家へ連れて行きましたね。家から出てきたおじいさんは怖そうな人で…(ああ、この人に謝らされるんだ)と思っていたら、体を二つ折りにして謝ったのは、母さん、あなたの方でした。
「うちの子が、お庭のびわの実を黙って採って食べてしまいました。本当に申し訳ありません。育てた私の責任です」…あなたはそう言いました。
(わたしのせいで母さんが人に頭を下げている)その光景が、どんなに強く怒られるよりも心に突き刺さって…。家へ向かう夕焼けの帰り道、私は「ごめんなさい!」としゃくりあげて泣きました。もう絶対に悪いことはしない。もう二度と母さんに頭を下げさせたりしない。私はあの時、そう誓ったんですよ。
ねえ母さん。私は平凡で大した人になれそうにありません。ですが一つだけ約束できることがあります。それはこの先、たとえどんなに貧しくてもどんなに困ったとしても、絶対に悪いことはしないということです。今はもう亡きあなたに、いつか褒めてもらえるように。「育てたのは私なんです」と誇らしげにいってもらえるように…私は、これからも、まっすぐに生きていきますね。
オヤジ、覚えているか。オレの勤め先が決まった時、それまで誰も入らせなかった自分の部屋に呼んだよな。タバコの臭いと、オヤジの体臭が入り混じったそこは、男を感じたな。オヤジの鋭い
「これだけは言って置くぞ。社会では酒が人間関係のつきあいでの潤滑油に使われる。だけど、絶対に酒に
「酒はたくさんの顔を持っているぞ。実に怖い。ただ酒はするな。後から仕返しがくる。人間を傲慢にする」オヤジが宴会で遅く帰るのは何だったのか、オフクロが朝方まで寝ないで待っている日もあったぞ。あのお酒たちはそうだったのか。
「体に一番悪いのは、やけ酒だ。これを続けているとアル中になる奴もいる。気の弱いオマエを見ていると、その傾向がある」。パトカーに運ばれて帰宅したオヤジよ。あれは人事異動の日だったよな。自尊心の塊のようなオヤジよ、オレに忠告する資格はあるのか。だけど、翌日には、朝早くオフクロに手を振って家を出たのには感心したぞ。
「盗み酒に手を染めたら、もう人生終わりだと思え。家族離散を覚悟しろ。もしオマエがそうなったら、親子の縁を切る」。オヤジは大根役者にもなったのか、目に涙を
一通りのオヤジの助言が終わった後の、大きな
「今度、二人だけで酒を飲もうな」。
「車椅子で大変そうだね。がんばってね。」「かわいそうに。」時々、町を歩いていると、人にこう声を掛けられることがあります。
僕は、生まれてからずっと、一人で歩いたことがありません。そして、一人でできない事も数多くあります。家に帰って来た時も、椅子に座らせてもらわなければいけません。トイレも介助を受けなければいけません。食事も作ってもらわなければ食べることが出来ません。寝るときには誰かがそばにいなければなりません。
こう、振り返っていると、大変そうだとか、かわいそう、だとか思うのも納得がいくのかもしれません。でも、体が不自由になったからといって辛いことばかりではありません。人より、得をしていることもあると思います。それは、人の優しさを敏感に感じることができることです。外出して、人に何か頼んだとき、ほとんどの人が手伝ってくれます。何かものを落としてしまったときも、親切に拾ってくれます。段差などにひっかかって動けないときに助けてくれます。こんなことが、身に染みてわかったのも、今の自分があるおかげです。
今まで、最初のように声をかけてくれた人々に僕はこんなことを伝えたいと思っています。「心配してくれてありがとうございます。普通の人と比べると大変なこともあるけれど、今の生活はとても充実していますよ。」と。
僕は、一時期よく体調を壊し、入退院を繰り返していました。そんなときも、支えてくれて、今は元気に通えるようになりました。
こんな話をするのは照れくさいので、面と向かって話さないけど今は素直な気持ちが言える気がします。
「生んでくれてありがとう。自分を助けてくれてありがとう。そして、これからお世話になる人すべてに、ありがとう。お父さん、お母さん。これからも自分のできることを精一杯していき、いつか親孝行ができるような人になります。」
私の母は、とても優しい人です。
私が幼い頃から母は私のことをいつも一番に考えてくれていました。
私には父が居ません。だから母は私のことを大切に一生懸命育ててくれました。
私は幼い頃母と一緒にいる時間が少なかったので私はいつも、母は私より仕事が大切だと思っていました。
私が小学校一年生の時、仕事で遊びに行けなかった時私は「私よりも仕事が大切なんでしょ」と言った時母は、「仕事をしないと育てていけなくなる」と言われて、初めて母が私のために毎日仕事頑張ってくれていることを知りました。頑張ってくれていることを知っていたけど、私はクラスの友達が遠い所まで遊びに行ったりしているのに、私はあまり遠いところに行ったことがなくていつも母にわがままばかりで困らせてばかりでした。
私が中学生になってからでも母は私のことを支えてくれました。
私が部活でうまくできない時も、明日もまた頑張ればいいと母は言ってくれました。テストでいい点が得られなかった時も次のテストでいい点を得られればいいと言ってくれたのも母でした。
私は生まれた時からずっと母に支えられてきていて、いつもどんな時もわたしのそばで応援していてくれていたので、次は私が私のできることがあったら、それを一生懸命自分なりに頑張って生きたいです。
これからは私が母を支えて、そして母が私にくれた分の幸せをかえしていけるようにこれからも頑張りたいです。
今、応募いただいた全ての作品を読ませてもらっています。どれも印象に残るものばかりで審査員泣かせの甲乙つけがたいものです。おひとりおひとりに返信しなければという思いにかられます。結果については、入賞の通知と本ホームページでの発表で個々への連絡に代えさせていただいております。改めてご理解願います。いずれ、「作品集」の発刊の際できるかぎりの作品を掲載したいと思っています。
橋本五郎文庫運営委員会
会長 小玉 陽三